福島第一原発事故が起きた、その年の12月。
山口洋から、突如永田町にある参議院会館に来るよう、招集命令が下された。
陽もどっぷりと暮れて会議室を出た後、彼は「オマエも自分の目で見たらどうなんだ?」と。
その言葉から逃げることは、この先のLIFEを逃げることを意味していた。翌日、予定にはなかったけど、福島県相馬市を目指すことにした。
函館~永田町~相馬。同じ国の風景とは思えない振り幅に、激しく動揺し、見事なまでに体を壊した。
翌年訪れた南相馬市小高地区のその風景には、言葉が見つからなかった。
「福島第一原発~相馬・南相馬」の距離と、「函館~大間原発」とのそれは、ほぼ同じだってことだった。
「自分にできること」。
そこから始めるしかないのだという事実と、その言葉を免罪符のように使うことへの罪悪感、後ろめたさ。それらを引きずりながら、その言葉の意味とACTIONを日々模索していく中で生まれる葛藤や迷い、失意、矛盾、誤解、エトセトラ。
「MY LIFE IS MY MESSAGE」は、その問いかけそのものだと思う。
だからこれからも、時に一人で、時に連帯しながら、その先を目指したいと思う。
両公演を主催。
函館から津軽海峡を挟んで、ほんとうに「大間原発」は見えるのです。それが決して対岸の火事ではないことは、行ってみれば分かります。
そんな暮らしの中で、素晴らしい野菜を作っています。都会の友人に贈ると、とても喜ばれます。